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2008年12月24日

LOHASなまち、自由が丘

今年8月、台湾で開かれたロハスシンポジウムで、自由が丘商店街「オフィシャルガイドブック」編集長の西村さんとご一緒して以来、自由が丘とのご縁ができました。
時期を同じくして、目黒区環境審議会専門委員会でもご一緒させていただき、11月にはシンポジウム、そして「めぐろ環境ナビゲーター」育成講座も始まりました。そこで、自由が丘のエコな取組みについて、レポートをお届けしましょう。

「自由が丘」は、渋谷から東横線の急行で2駅目の駅で、駅を中心に半径500mほどのエリアに現在約1300軒が加盟する日本最大級の商店街が広がっています。パティスリーをはじめとする飲食店やヘアサロンが多いため、別名“スイーツのまち”や“ビューティーのまち”とも呼ばれています。インテリアショップや雑貨店、書店やスクールといったカルチャースポットも多く、今では女性を中心に1日平均10万人が乗降するまちになりました。

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ライフスタイルショップの草分け「私の部屋」

また、月に1度は商店まち主催のイベントを開催しており、 “住みたいまちNo.1”といわれる理由として、“いつもまちで何か楽しいことをしているから”という意見も寄せられているそうです。その中で一番大きなイベントは毎年10月に行われる女神祭りで、2日間に渡って開催します。期間中は全国から50万人が集まり、駅前の特設会場でライブを行ったり、まちのあちこちで露店が出たり、盆踊もあるなど、大いに賑わいます。

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「女神まつり」左から辻口博啓さん、王理恵さん、小池百合子さん

 
パリ帰りの人々が目指した“自由”なまち

自由が丘は、約80年前までは農家が80戸ある程度で、田園風景が広がり、まちの名前も“自由が丘で”はなく、日襖(ひぶすま)村という町名でした。1920年代に、ヨーロッパで自由教育を学んだ手塚岸衛という人物が、新しい土地で新しい教育を実践しようと決意して帰国。その際、偶然目にした日襖村の風景に惹かれて、1928年(昭和3年)に私立小学校「自由が丘学園」を創設したのです。

その精神に共鳴したのが、手塚氏がパリへ向かう船の中で知り合った舞踏家・石井漠氏。石井氏は、帰国後「自由が丘学園」のすぐ近くにダンススタジオを構えました。石井氏は、カルチャー界をリードするいわば当時のスーパースターで、彼に影響を受けた作家・新聞記者・画家・音楽家-----といった前衛的かつ革命的な思想をもつ人たちがだんだんと集まり始めました。彼らは日襖村というまちの名前が気に入らなかったようで、勝手に町を“自由が丘”と呼び、日襖村はいつしか通称“自由が丘”となったのです。そして、このネーミングが、ますます前縁的な人物をこの土地に集めていきました。

自由が丘を代表する芸術家として、作家の石坂洋次郎氏・石川達三氏・画家の宮本三郎氏、女優・司会者として活躍している黒柳徹子氏が挙げられます。黒柳氏はトモエ学園(旧自由が丘学園)出身で、当時を振り返った自伝的小説『窓ぎわのトットちゃん』は、81年の発売以来750万部を記録。33ケ国で翻訳されています。

昭和4年には通称であった自由が丘が駅名となり、昭和7年には町名を正式に「自由が丘」と変更。まちのフロンティア・スピリッツは、自由が丘の精神はまちに脈々と息づいており、和栗を使ったケーキお菓子“モンブラン”を生んだ「モンブラン」、和菓子店でありながら洋菓子の要素も取り入れた銘菓“ナボナ”を発売した「亀屋万年堂」、雑貨ではアール・ド・ヴィーブル(暮らしの技法、という意味)の考え方を取り入れた雑貨専門店「私の部屋」など、商店まちには次々と新しい発想を持った人物が現れ、新しい文化を創っていきました。

自由が丘のエコ。 行政に頼らず商店街が率先

自由が丘のまちが発信したエコロジー活動として、特徴的なものは独自のゴミ収集「自由が丘方式」と、廃食用油を燃料にした「サンクスネイチャーバス」です。

東京都23区では事業系ゴミは有料で引き取られ、住宅のゴミは決められた日の朝に分別してゴミを出して無料で収集してもらう仕組みになっています。ところが、店舗の多い自由が丘では、夜間にゴミを出すとカラスが袋をつついて、朝にはゴミ袋から悪臭が出ることが問題になっていました。そこで、商店街では行政に夜間回収を依頼するのですが受け入れられず、独自に民間の業者に依頼し、夜間に有料で回収してもらう方式を導入したのです。今から13年前のことです。この独自の取り組みは日本初であり、今では“ゴミ収集自由が丘方式”と名付けられ定着しています。

「サンクスネイチャーバス」は、1994年に、自由が丘の駅から少し離れたところにある店舗、高級スーパーマーケット、テニスクラブ、ボウリング場、グリーンショップを経営していた4人が、自由が丘中心部からの送迎バスのような感覚で、お客さんやスタッフの利便性を考えて発案されたものです。その際に、環境面も考慮したリサイクル燃料を使ってみようじゃないかということになったのです。廃食用油を地域住民から無料で業者が回収し、リサイクルしたバイオ燃料です。そして、まちに遊びにきてくれたお客さんや住民の利便性を考えて無料バスとし、まちを循環させようと考えたのです。

これもまた、前例が無いといった理由で行政から待ったがかかったのですが、地元で運行経費を支えるサポーターを募り、発足の翌年には19社のサポーターを獲得し、廃食用油を燃料とする申請の手続きをとったり、廃油を回収するシステムを作ったり、運転手を探したり、バスの手配や運行管理体制を整備するなど数々のステップを踏んで、1997年度より運行が始まりました。現在では年間40万人が利用する、まちになくてはならない存在となりました。

わかりやすく楽しいエコ。「ロハスなまち、自由が丘」と呼ばれるように

自由が丘にはケニア大使館があったご縁で、ノーベル平和賞を受賞したワーガリ・マータイさんの“もったいない運動”とまちのイベントを連動させたこともあります。2007年度の「女神祭り」では、 “もったいない”をテーマにオリジナル風呂敷を商店街で500枚ほど制作し、来場者に無料配布しました。日本を代表するパティシエ・辻口博啓さんのお店が自由が丘にあることから、辻口さんにデザインを依頼しました。また、辻口さんや地元在住の王理恵さんらによるエコトークショーも行い、多くの来場者が参加しました。イベントに来場する60万人の人たちに、楽しみながらエコな気持ちを持ってもらおうと、おしゃれで誰でも取り組みやすい、垣根の低いエコ活動を提案しています。

さらに、古本を集めて換金し、そのお金で花の種をプレゼントし、まちに花や緑を増やす活動も、昨年から行っています。また、今後は、まちでミツバチを飼い、取れたハチミツをケーキやお菓子などスイーツのお店に使ってもらうようなプロジェクトも計画中です。ミツバチは農薬に弱いので、ミツバチの住めるまち=農薬を使わないまちが広がるという側面もあります。 
商店街の人たちは「気がつけば自由が丘はロハスなまちと呼ばれるようになっていた」と言います。ますます楽しくて、おしゃれで、優しくて、緑が沢山ある自由が丘になっていきそうです。

Writing: owadajunko

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